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またもや寄り道!五社神社からの賀茂真淵記念館で10㎞ウォーク



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またもや寄り道!五社神社からの賀茂真淵記念館で10㎞ウォーク

寄り道が続いていますが、今回は元城東照宮から浜松城を超えて、五社神社へと足を伸ばしました。でもそこからまさかの賀茂真淵記念館まで行くとは・・・

 

自宅から車で約15分、徒歩だと40分以上ですから、もう車で行く距離ですよね。

 

合祀された五社神社と諏訪神社

合祀された五社神社と諏訪神社

五社神社と諏訪神社が合祀されたのは昭和37年(1962年)です。

 

江戸時代に浜松で謳われた俚謡に

『お江戸見たくば五社諏訪ごろじお江戸まさりの五社や諏訪』

とあります。

浜松にはお江戸以上に立派な五社神社や諏訪神社があるのだから、わざわざ出かけるまでもあるまいと謳われたのです。

浜松御城下略繪図

浜松御城下略繪図にも五社神社と諏訪神社が並んで書かれています。 

 

五社神社拝殿、諏訪神社楼門ともに旧国宝社殿でしたが、浜松大空襲で失われ、昭和24年(1949年)には国宝指定が解除されてしまいました。

合祀された五社神社と諏された

五社神社は、もともと浜松城内にあったそうです。徳川秀忠公の誕生により、産土神として崇敬し、天正8年(1580年)に現在地に移ったようです。

 

諏訪神社は延暦10年(西暦791年)、坂上田村麻呂が東征の砌、敷智郡上中島村に奉斎と伝えられています。こちらも秀忠公の誕生で産土神として崇敬され、天正7年(1579年)に社殿を造営され、寛永11年(1634年)に現在地に移りました。

 

合祀された五社神社と諏された

右側の手水鉢は、寛永15年に浜松城主の高力摂津守より寄進されたものだそうです。

五社神社・諏訪神社の手水鉢

石段を登ると左側には御神岩『獅子頭石』が祀られています。

御神石『獅子頭石』

昔から五社神社に伝わる自然石の御神岩だそうです。

みんなが参拝していくのが拝んできました。みなさんよく知っていらっしゃいます(^^ゞ 

五社神社神主が賀茂真淵の師だった

 

光海霊神碑

帰ろうと門に向かっていると、左側に光海霊神碑がありました。

これは賀茂真淵が幼少の頃、師と仰いだ五社神社神主守暉昌大人の功績を記した顕彰碑 だそうです。

 

賀茂真淵は浜松が生んだ江戸時代の偉大な学者ですね。八代将軍の徳川吉宗の次男田安宗武に仕え、万葉集を研究して国学を樹立した功労者です。

 

多くの門人を育てていて、本居宣長の師でもあります。

 

賀茂真淵が祀ってある県居神社(賀茂真淵を祀っている学問の神社)が近くだったなぁと思い、さらに寄り道をすることにしました。

 

賀茂真淵記念館でまさかの伊能忠敬の下絵を見せてもらう

 

縣居神社

学問の神様の縣居神社にやってきました。

僕が受験をするときに、両親がお参りしてくれていたようです(^^ゞ

 

縣居神社に入って進んで行くと、賀茂真淵記念館がありました。

令和元年の今、万葉集が注目されていますが、江戸時代に万葉集を研究していたのが賀茂真淵です。

 

令和の出典は、万葉集の巻五の

干時、初春令月、氣淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香

からとなっています。

 

時あたかも新春の好き月、空気は美しく風はやわらかに、梅は美女の鏡の前に装う白粉のごとく白く咲き、蘭は身を飾った香りの如きかおりをただよわせている。

 

五十音表

今当たり前に使っている五十音ですが、賀茂真淵が五十音表を紹介して、語句の活用も説明したことで、国語研究の世界に広まっていきます。

  

賀茂真淵記念館

 江戸時代には版本が出現しているようです。彫った版木で印刷した本で、写本の世界から何冊でも刷ることができる版本の世界へと変わっていきます。

 

展示されている版本を見ましたけど、まさに職人技です。堅い木を彫っていくのですが、続き文字なども全てそのままです。

書かれた原本を反対にした状態を彫っていくのですが、めちゃくちゃ時間がかかる作業ですね。江戸時代には職人が数多くいたらしいのですが、それでも数年単位で時間がかかる作業ですね。

 

伊勢松坂の本居宣長は賀茂真淵の弟子ですが、宝暦7年(1757年)江戸で刊行された冠辞考を見たことがきっかけだそうです。

 

賀茂真淵は万葉集、本居宣長は古事記って覚えがあります。

 

今日はそれほど来館者が多くなかったこともあって、館長さんがずっと解説をしてくれたので、いろいろと知識が広がりました。

 

本居宣長が読んだ富士山の歌を見ていたときに、昔から富士山に重きが置かれていたとの話になりました。

 

江戸時代なら富士山のことは知られていたでしょうけど、もっと昔だと富士山のあたりは拓けていない地だったでしょうから、知られない存在だったのではと思いました。

でも竹取物語の最後には、富士山が登場するんだとか・・・

 

かぐや姫が月に帰ってしまい残念がった天皇が、残していったものもすべて要らないから、一番高い場所で処分してほしいと言われ、富士山で燃やしたというエンディングになっているそうですよ!その頃に富士山って感じでビックリです!!

  

伊能忠敬の地図

 そして最後に展示場ではないのですが、伊能忠敬が測量をした下図があるとのことで見せてもらいました。

 

浜名湖の形も正確に記されています。沿岸部は隈無く測量したようで全て記されていますが、内陸部は全てではないようです。

 

それぞれの城主に会い、案内された街道などがメインになって記されています。浜松城かの追分村、我が家の昔の地図に触れたことになります。

 

現在の地名とほとんど変わらないことにもビックリしました。

 

と言うことで、ものすごい寄り道となりました。記念館に寄ったこともあり、2時間半もの時間がかかりましたが、ものすごく満足度の高い寄り道でした!